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個展へ寄せて_蘆田裕史氏より

個展〈Who Am I ?〉にファッション研究者で京都精華大学デザイン学部准教授の蘆田裕史氏からコメントをいただきました。



岡本 里栄 個展〈Who Am I ?〉に寄せて


 ここに一枚の服があるとする。どこかのお店でマネキンがその服を着ているのを見ても、ほとんどの場合、おそらくあなたは特に何も思わないのではないだろうか。思ったとしても、かわいいな、とか、自分には似合わないな、とか、せいぜいそのくらいだろう。

 一方、その服が道ばたに脱ぎ捨てられていたらどうだろうか。これは誰かが落としたのか、あるいは捨てたのか、それとも犯罪に巻き込まれたのか、そんなことを思うだろう。

 同じ服なのに、なぜ違いが生じるのか。服はタブラ・ラサとまではいかなくとも、もともとニュートラルで、まっさらな状態にある。それを持ち主が生活のなかで身につけていくことで、そこにさまざまな情報や痕跡が蓄積されていく。その結果、服が物語を、イメージをまとうのだ。そうしてまとった物語やイメージは、着用者の身体が見えずとも、衣服にまとわりつく。

 岡本が描く衣服——手袋やマスクも含め——は、着用者の身体が不在であるだけでなく、折れ、皺、汚れなどがそのまま表されている。ファッション写真のように、衣服をスタイルの良いモデルに着せることによっておしゃれに見せるようなことはしない。ときにはベッドの上に無造作に置かれ、ときには地面で朽ちていくのを待つかのようである。そこにおいて私たちがまなざしているのは、衣服が着られていたときの着用者の物語だと言えよう。私たちは衣服を通じて、着用者の生を見ようとするのだ。

 さらには、描かれた衣服は細い紐のようなものに囲まれている。この紐状のものは、作品の傍らにあり、作品と切っても切り離すことのできないフレーム——思想家のジャック・デリダはそれをパレルゴンと読んだ——とは異なると考えられる。紐によって形成される線は、フレームの役割を超えて画面上に闖入し、フレームと作品の境界を曖昧にする。そしてその線が切り抜かれ、画面に穴を開ける。絵画(タブロー)からの脱却を目指すかのように。

 そう考えるならば、岡本は境界を探っていると言えるのかもしれない。衣服と身体の境界、作品とフレームの境界、さらに言えば、絵画とそうでないものの境界……。その実践の果てに見えるのはどのような景色なのだろうか。


ファッション研究者
蘆田 裕史 Ashida Hiroshi


展覧会情報

岡本里栄 個展 Who Am I ?

会期|2021年10月12日(火)〜10月23日(土)
時間|12:00-18:00
休廊|月曜
会場|galerie 16
〒605-0021 京都府東山区石泉院町394 白川橋上ル


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